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リトル・ランナー
SAINT RALPH



主人公のラルフは、カトリックの学校に通う14歳の少年。父は戦死し、唯一の肉親である母も入院という境遇にも負けず、明るさを失わずに生きる彼は、校則破りの常連として校長に目をつけられているヤンチャ坊主だ。だが、その青春の日々が終わったことを告げるように、病状の悪化した母が意識不明の重体に。
  「奇跡でも起きない限り、昏睡から目覚めることはない」と医者から宣告されたラルフは、半年後に行われる第53回ボストンマラソンに、史上最年少で優勝するという<奇跡>を起こそうと決意する。クラスメイトにバカにされながらも、奇跡を信じ、黙々と自己流のトレーニングを続けるラルフ。そんな彼の熱意に打たれ、コーチを引き受ける元オリンピック選手のヒバート神父。さらに、看護婦のアリス、親友のチェスター、初恋の少女クレアたちの協力を得たラルフは、度重なる苦難を乗り越え、心身ともにたくましく成長を遂げていく。そして迎えたレース本番。世界の強豪がズラリと居並ぶなか、果敢に先頭集団にくらいつく。果たして、彼の切なる思いは天に届くのか!?

 
キャスト
ラルフ・ウォーカー・・・アダム・ブッチャー
ヒバート神父・・・キャンベル・スコット
アリス看護婦・・・ジェニファー・ティリー
フィッツパトリック神父・・・ゴードン・ピンセント
クレア・コリンズ・・・タマラ・ホープ
エマ・ウォーカー・・・ショーナ・マクドナルド
 


Production Notesより

プロデューサーのテッツァ・ローレンスとマイケル・サウザーが、監督・脚本のマイケル・マッゴーワンと出会ったのは、ふたりが主催する新人シナリオライター発掘プログラムに、マッゴーワンが『Over the Falls』と題する脚本を持ち込んだことがきっかけだった。
その脚本は映画化に至らなかったが、数年後、マッゴーワンは新たな脚本の構想を携えてプロデューサーたちを再訪。サウザーから執筆をすすめられると、その週末のうちに準備稿を書きあげ、直後に初稿も書き上げた。それを読んだときの感想を、ローレンスは。「この物語は、特殊効果に頼ることもなく不思議な力を秘めているの。初稿の段階で、この作品には魅力と永劫性が間違いなく共存していた。ラストでは、胸がいっぱいになったわ」と語る。
オフィシャルサイト
http://c.gyao.jp/movie/little-runner/


原題:SAINT RALPH|提供・配給:ギャガ・コミュニケーションズ Gシネマグループ
宣伝:ギャガ宣伝【夏】×アニープラネット|後援:カナダ大使館
2004年|カナダ|98分|ビスタサイズ|DOLBY SR/DOLBY DIGITAL|www.gaga.ne.jp

(C)2004 Runnning Miracles Producions Inc, an Alliance Atlantis company. All rights reserved.
 
   
About Saint Ralph
(Production Notesより)
 
 

山北宣久 (聖ヶ丘教会牧師 日本基督教団総会議長)

『リトル・ランナー』(原題『Saint Ralph』)をめぐって

 感動的なシネマであるが、この映画をよりよく理解するためにキリスト教的背景に触れておこう。このストーリーは1953年9月から54年5月までの日付が小見出し的に出てくる。列挙しておこう。
53年 9月 「大天使ミカエルの祝日 誘惑と戦う人の守護者」
10月 「聖ユダの祝日 むなしい試みの守護者」
11月 「聖ブルーノの祝日 憑かれた人の守護者」
12月 「聖リタの祝日 孤独な人の守護者」
54年 1月 「聖アントニオの祝日 墓堀り人の守護者」
2月 「聖トマス・アクィナスの祝日 弁解する者の守護者」
3月 「聖クリスチーナの祝日 狂人の守護者」
4月 「聖カタリナの祝日 防火の守護者」
5月 「聖ハルヴァーの祝日 純真の守護者」
といったテーマに関連して物語が展開されていく。

聖人の事績に関連した「聖者暦」なるものは早くから編集され、美しい挿絵を掲載した豪華写本も存在している。『リトル・ランナー』もカトリック教会の聖者暦を採用しているということになる。
  そもそも「聖人」とは何であろう。それは信仰と生活に特別優れた人物に死後贈られる称号で、それがセイントとなる。初代の教会では殉教者が聖人になったが、その後、幅は拡げられた。カトリックでは「尊者」「福者」「聖人」の三種がある。この聖人は列福式がありローマ教皇が「聖人として崇敬せよ」と宣言することになっている。
  ラルフがセイントになっていることは、教皇庁の礼部聖省の列聖調査も経ていないし、もちろんフィクションである。ステンドグラスにラルフの走る顔が刻まれるなどということは映画ならではの美しいパロディであることもいうまでもない。
 





一方、守護者、守護聖人が聖者暦として散りばめられているのだが、その守護聖人の執り成しの祈りが神に届けられ、守りと祝福を受けるとされている。何やらご利益信仰のように見えるが、人間生活に深く関わる神の恵みのあらわれとして具体化しているのであろう。洗礼のときに付けられるクリスチャンネーム、洗礼名も、この守護者との関連で出てきているものなのでる。
  このシネマの中核をなすのは「奇跡」である。ボストンマラソンでの優勝が母の命を救い奇跡をもたらすということが主旋律として奏でられていく。
超自然的な出来事、理性では考えられない現象を奇跡というが、聖書では奇跡というものを一つの明確な目的をもって記し、語っている。それは神の愛を伝えるということである。病める者や苦しむ人への止むにやまれぬ愛の発露として奇跡はなされている。だから愛のない処、たゞ興味本位で人間の欲望を満足させるために求められる奇跡をイエス・キリストは拒否した。
  奇跡の利用、誤用、悪用を警戒してのことであろう。
  ヒバート神父が奇跡は「信仰 純潔 祈り」によってもたらされるとラルフに教えるが、この三つは人間中心、理性万能を離れた深いところに存在するものである。一体、科学万能といわんばかりの人間の傲慢を打ち砕くために奇跡はあるのかも知れない。人間の理性、知識、手腕を絶対視するところからくる問題は余りに多いのだから。
  ところで、聖書の語る最大の奇跡とは何か。それは復活である。愛は死を超える。この事実としての復活こそが奇跡中の奇跡となる。
  従って母親の命の回復、死の眠りから醒めて「ラルフ」と呼びかけることの中に、この復活の奇跡を暗示していると見てよいのであろう。ここに感傷や夢物語を超えた厳粛なテーマの開示がもたらされているのだ。