母たちの村 2006年6月17日(土)より
岩波ホールにてロードショー 西アフリカのとある村。 コレは、いつもと変わらぬ穏やかな朝を迎える。 突然、4人の少女がコレのもとへと逃げ込み、怯えながら彼女の足にしがみつく。 「おばさん“保護”して!切られるの嫌だ!」 この村では、女の子たちは割礼を受ける決まりとなっていた。彼女たちは割礼を嫌がり、コレのもとへ。 この出来事で、村中が混乱でごった返す事となる。 伝統を頑なに守ろうとする者、新たな考えをする者。2つの価値観が衝突し、村の緊張は更に高まり騒然となる… |
キャスト コレ:ファトゥマタ・クリバリ ハジャトゥ:マイムナ・エレーヌ・ジャラ アムサトゥ:サリマタ・トラオレ アリマ:アミナタ・ダオ 兵隊さん:ドミニク・T・ゼイダ 割礼師:マー・コンパオレ |
||||||||||||
ウスマン・センベーヌは、母国セネガルの国境を越え、世界中で「アフリカ映画の父」として賞賛されている。彼は、1956年にマルセイユで発表した第一作目の詩集から、最新作Guelwaarに至るまで、5つの小説、5つの短編集、そして4つの短編映画、9つの長編映画、4つのドキュメンタリーを発表している。 センベーヌは、国際的レベルでの革命的変化を求めて、多くの仲間と共に闘ってきた。しかし、革命的な芸術家や作家がアフリカに存在しないという事実に疑問を抱くようになった。そして、アフリカの芸術・文化をアフリカから発信する為に情熱を注ぐようになる。 1956年以来、センベーヌは「日常のヒロイズム」と称するアフリカの人々の日々の葛藤を描き続けている。闘い続けるアフリカの人々を解放し、威厳を回復させる為に努力する一方、映画・文学などの芸術作品は、単なる現実描写もしくは、政治的スローガンであってはならないと信じている。 アフリカの人達に、文字では伝えられないメッセージを、映画を通して伝えたいと願い、映画製作を志す。40歳になる頃奨学金を受け、モスクワへ渡り映画製作を勉強する決心をし、1962年からの1年間、映画撮影技術を学んだセンベーヌ。その年の終わりにセネガルへ帰国。1963年、センベーヌ初監督作品となる「ボロム・サレット(borom sarret)」は、初めて世界市場に出たアフリカ映画となる。 センベーヌ監督のおかげで、アフリカは、アフリカ以外で作られた映画の消費者ではなく、アフリカの独自の映画の「生産者」となったのである。 1964年に、村の貴族の近親相姦の物語「ニアイユ(Niaye)」を監督。これら初期の短編2作品の後、1965年に初の長編映画「黒人女(La NOIRE DE…)」で、ジャン・ヴィゴ賞、ダカール世界黒人芸術祭大賞、カルタゴ映画祭グランプリ受賞。アフリカ人により初めて製作された長編映画で、一躍アフリカ映画の存在を国際社会へと知らしめた。 センベーヌは20世紀が終わる直前に「Faat Kine」 (2000)というアフリカ人女性の闘いを描いた作品を製作。
|
|||||||||||||
モーラーデ 【moolaade】 西アフリカの広い地域で話されているフルベ語の語彙である。語根のモール(mool‐)には「避ける、逃げる」といった意味と並んで「避難する」、「(〜のもとに)保護を求める」という意味がある。モーラーデという語には中世ヨーロッパにおいて、そこに逃げ込めば何人(なんぴと)の力も、法の力も及ばない避難所という意味があるフランス語のアジール(asile)と同様、聖域とか避難場所といった意味を持つと考えられる。 |
|||||||||||||
ひとこと 割礼という、古くから慣習として伝えられた儀式に対する母たちの戦い。それは、実際にその儀式のために娘の命を奪われた母たちの悲痛の叫びであることがわかる。 割礼は宗教的な儀式ではなく、当時の衛生上の課題を解決するために始まったという説を読んだことがある。その起源はわからないが、今も形だけが続いていて、多くの女性を悲しませていることがこの作品から伝わってくる。はじめは戸惑いながらも、やがてそれに立ち上がる母たち。その力は感動を呼び覚ます。形だけの伝統や権威を守ろうとする権力者たち、彼らはいったい何を恐れているのだろうか。このような習慣のない私達の社会では、儀式のことを象徴的に受け止めてしまう。これは、アフリカだけの話なのだろうかと。 今年はアフリカをテーマにした展覧会と映画作品が続いている。2006年5月27日から8月31日まで森美術館でアフリカの作家達の展覧会が開催され、映画では、5月13日から「ナイロビの蜂」が公開されている。アフリカを知るとてもよい機会である。(JS) |
|
|
|||||||||||
スタッフ
第57回 カンヌ国際映画祭 ある視点部門 グランプリ受賞 |
|||||||||||||