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と ま れ 、み よ
福居伸宏  宮内克彦

gallery Archipelago
2006年 7月15日(土) - 7月23日(日)

 

       
福居伸宏

 

 

宮内克彦

 


見ている、見えているという思い込みほどあてにならないものはない。

写真は、ぼくらが見ている、見えていると軽んじている認識に冷水を浴びせる。

たとえば、夜の街角。
福居伸宏が撮影する夜中の都市風景には、うっすらと色がついている。街灯を光源にしているため、建物はその光の色に染まっている。しかし、夜の街角を歩くとき、ぼくらは光の色を意識はしていない。経験に照らして、白い壁を白だと思い込んで見ているからだ。
しかし、カメラはその場にある光が照らし出す世界を忠実に写し取る。光があることで、ものの輪郭が浮かび上がり、ぼくらの目に見える。しかし、見えたと思ったときには、これまでの経験上の文脈でしかその風景を見ていない。

福居が撮影する夜の街角は、カメラが凝視したひとつの断片である。光を集めることによって見えているイメージを見ていると、世界を見るぼくらの目の頼りなさを痛感させられる。

写真はいつでも「静止」している。
見ている、見えているという思い込みは、永遠に静止している写真によっても裏切られる。
宮内克彦が高速道路を撮影した写真は、運転者の主観を「止め」ている。写真を見るうち、その止まっていることに、居心地の悪さを覚える。写真を写す視点が、本来は動いているのだということを、ぼくらは直感的に感じ取る。

静止した場所で撮影した写真と動いている状態で撮影した写真の決定的な違いを、ぼくらは無意識に感じている。そして、動いているはずのものが止まっていることに戸惑いを覚える。ぼくらの目は、写真によって静止した瞬間を教えられる。

ぼくらは都市に住んでいる。しかし、本当に、この目で都市を見ているのだろうか? 二人のまったく違う個性を持った写真家は、都市を「見る」ことへのこだわりにおいて共通している。彼らの作品がギャラリーの空間で対峙したとき、そこに何が立ち現れるのか。「この目」で確認したい。


(文:タカザワケンジ)


           
 

宮内克彦
http://d.hatena.ne.jp/katsu201jk/

   
   
お問い合わせ:ギャラリーアーキペラゴ
http://www.archi-pelago.net