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マリア・カラスの真実
Callas assoluta

2009年3月28日(土)より渋谷・ユーロスペース他全国順次公開


■ドキュメンタリー

 1958年12月19日、マリア・カラスがパリ・デビューを飾ると聞きつけ、ブリジット・バルドー、仏大統領ルネ・コティなど各界セレブがパリ・オペラ座のガルニエ宮に集まった。大成功の公演後、晩餐会が開かれ、チャールズ・チャップリン、ジャン・コクトー、マルティーヌ・キャロルらと共にギリシアの海運王アリストテレス・オナシスが招かれた。
  1959年4月、マリアはトスカニーニの娘ヴァンダが主催するヴェネツィアでのパーティーに招かれ、そこでオナシスに再会し、彼はカラスを独占した。
  7月、オナシスのヨット、クリスティーナ号に乗るため、夫とモンテカルロを訪れる。このヨットはオナシスが富をひけらかす最高の手段であり、常連にはウィンストン・チャーチルも含まれた。これは彼女にとって人生最初の休暇となった。

 

 


■主な登場人物
ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニ
アリストテレス・オナシス
ルキーノ・ヴィスコンティ
ピエル・パオロ・パゾリーニ
グレース・ケリー
ジャクリーン・ケネディ
 











       

 

出生からデビューまで
 1923年、マリアの母エヴァンゲリアと父ヨルゴスは、6歳の娘ジャッキーを連れてギリシアからニューヨークにやってきた。クイーンズで薬局を始める。母は妊娠中で跡取りを願ったが、生まれたのは女の子だった。ショックで母は娘・マリアを4日も見なかった。
  1929年の大恐慌で薬局の経営が悪化し、父は店を手放す。その後一家は引っ越しを繰り返し、32年マンハッタン島北部に落ち着く。社交的な姉とは逆にマリアは内気だった。オペラ歌手を志した母は、マリアの才能に気付き、行動を起こし始める。週末になるとマリアは公立図書館で音楽資料を聴かされ、ローザ・ポンセルのレコードを聴いて感銘を受ける。ポンセルの《ノルマ》はマリアの手本となった。

 ジュニア・ハイスクールの卒業式で歌を披露して喝采を浴び、35年にはCBSの公開のど自慢番組で2等賞を獲得し、36年ラジオ番組に参加し、プッチーニの歌劇《蝶々夫人》のアリア「ある晴れた日に」を歌った。マリアの卒業後、エヴァンゲリアは夫を残し、娘たちを連れて故国に戻る決心をし、1937年マリアは母、姉とギリシアのアテネ移住。ピアノと歌のレッスンを始め、楽譜研究に明け暮れる。
  1939年、大歌手エルヴィラ・デ・イダルゴに認められ、アテネ音楽院に入学。
  17歳の時、スッペのオペレッタ《ボッカッチオ》でプロ・デビュー。
  1941年、プッチーニの歌劇《トスカ》の主演を与えられて18歳にして大成功を収める。
  1944年10月、アテネは解放されるが、マリアは占領軍の為に歌ったことが理由で、オペラ座から追放され、奨学金も打ち切られ、単身渡米する。
  ニューヨークで父に迎えられ、《ジョコンダ》の歌手を探していたヴェローナ音楽祭の監督ゼナテッロが、彼女の歌を聴いて、即契約が決定する。

再デビューから成功まで
  1947年、《ジョコンダ》でイタリア・デビューを果たす。28歳年上のメネギーニを愛人兼マネージャーとする。以来、彼は地方劇場ながら《アイーダ》《ナブッコ》《トゥーランドット》《パルジファル》などの出演契約を結んできた。しかし、既婚者のメネギーニと結婚できるわけもなく、帰米することを決めた矢先に、セラフィンの紹介でフィレンツェ五月音楽祭の総監督フランチェスコ・シチリアーニと出会い、歌を聴いてもらい気に入られる。そして48年《ノルマ》で同音楽祭にデビュー。以来、この音楽祭の顔となる。 1949年4月21日、ヴェローナでメネギーニと結婚。その後、アルゼンチン、メキシコなどに招かれて歌い、世界的スターとなる。50年メキシコ・シティの公演で母を招くが、金の無心をしてきたのが理由で、彼女との縁を断つ。
  50年、ロッシーニの《アルミーダ》を手始めに、ヴェルディの《シチリア島の晩鐘》《椿姫》、ケルビーニの《メデア》などを演じた。
  この活躍によって遂にスカラ座から正式に呼ばれ、51年12月7日のシーズン開幕作品《シチリア島の晩鐘》に主演。52年4月にはモーツァルトの《後宮からの誘拐》でコンスタンツェを演じて、どんな役でも歌えることを証明。スカラ座の新しいスターとなるが、体重が100キロを超えて垢抜けなかったため、意を決してダイエットに挑戦し、1年半で40キロ減量に成功して、見違える美しさとなる。

 1955年スカラ座シーズン開幕作品《ノルマ》に取り組む。彼女はノルマに自身を投影する。この役は彼女のお気に入りであり、様々な映像、録音が残されている。もう一つのお気に入りが《椿姫》。スカラ座ではヴィスコンティ演出で伝説的な舞台が作り上げられた。歌うフレーズを思い浮かべて、それを表情にして顔に表してから歌い出すのが、彼女のスタイルになった。

 1956年10月、《ノルマ》で遂にNYメトロポリタン歌劇場にデビューし、大成功を収める。

不調と失意
  縁を切っていた母がマスコミに悪口を吹聴して回るという忌わしい事態が起きる。アテネでのコンサートは体調不良で一回目の公演をキャンセルした。これが人々の反感を招く結果となる。57年エディンバラ音楽祭で《夢遊病の娘》を演じるが、4回公演のはずが5回に増やされていたことで5回目を歌わずに去り、更なる非難を浴びることとなる。

 1958年1月、ローマ歌劇場での《ノルマ》の初日前日に不調を訴え、一幕の終わりで声が出なくなり、やむなく公演を中止。当日は伊大統領を始め有名人が訪れ、報道人も集まっていたことで、「裏切り」と大騒ぎになり、結局降板させられる。

 1959年9月、コンサートでスペインを訪れた時には、既に夫と別居していた。11月、夫との法的な別居を求める訴訟で裁判所を訪れたマリアは、哀れな夫を裏切った恩知らずな不倫女とマスコミや人々に非難される。4か月後に正式に別居が認められる。その頃、オナシスとの子供を身ごもるが死産となる。
  1960年6月にオナシスは妻と離婚。モンテカルロで過ごすようになってマリアはモナコ公国の女王グレース・ケリーと友好を深めた。
1965年5月、コヴェント・ガーデンで《トスカ》を演じる予定だったが、体調が優れず予定されていた4回公演のうち3回をキャンセルし、王室臨席の最終日だけかろうじて歌った。これが最後のオペラ出演となった。

 1966年、マリアは夫と正式離婚して、オナシスと結婚するつもりでギリシア国籍を取得。しかし、オナシスはジャクリーン・ケネディに心を奪われていた。68年10月、オナシスはジャクリーンと電撃結婚。全てを失ったマリアは、再び歌うことを決意する。しかし、声は万全ではなかった。エウリピデスのギリシア悲劇『王女メディア』(69)の映画化主演の依頼が舞い込む。監督はピエル・パオロ・パゾリーニ。

 失意のマリアはパリのジョルジュ・マンデル通りにある新居で、睡眠薬の多量摂取で倒れているところを発見される。
  1971年10月から72年3月にかけてニューヨークのジュリアード音楽院でマスタークラスを担当。NYでの孤独なホテル住まいを訪れたのが、かつての共演相手ジュゼッペ・ディ・ステファノ。難病の娘を助けるためお金が必要だった彼は、二人で世界各地を回ってコンサート・ツアーをしようともちかける。
  1973年秋から始まったデュオ・リサイタルは「お葬式ツアー」と揶揄された。最後となったラジオ・インタビューでは、「若手の指導をしたいと思っているが、誰も門戸を叩かない。誰も私を必要としていない」と、寂しい心中を語った。
  1975年3月、オナシスがパリの病院で死去。息子が飛行機事故で他界したショックによる心労からだった。マリアは生きる希望を失った。
  1977年9月16日、浴室で倒れている所を発見される。53歳だった。遺骨は一時的に安置されたパリの墓で盗難に遭うが、2日後に路上で発見される。その後、ギリシアに渡り、遺灰はエーゲ海にまかれた。博物館を作るという計画はすぐには実現せず、遺品は全てオークションにかけられてしまった。残ったのは彼女の素晴らしい歌声だけだった。

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■プロダクション・ノートより

フィリップ・コーリー監督

私は過去にダリダ、バルバラ、そしてリーヌ・ルノーの映画を作っている。3人とも歌手として偉大な人物である。今回マリア・カラスの映画を作ろうと思ったのは私にとってカラスは自分の原点のように身近に感じられる人間だったからだ。
あるいはこう言ってもいい。感動こそが語り手であり、カラスの生涯にはどの時点を取っても、目がくらむほど激しい感動があるからだ。

この映画は単に一人のオペラ歌手を思い出させるために作ったのではない。音楽批評を目指したものでもない。一人の女性の人生におけるあらゆる側面を描こうとした。
映画は最初から最後までそれらを対等に撮っている。価値観に囚われ序列化することなくマリア・カラスの視点に立っている。例えば《トロヴァトーレ》や《ドン・カルロ》のアリアもオナシスとのクルージングも対等であるということだ。
カラスは音楽の天才であるが同時に少女時代から移り気な世界の女王を望む二面性を持っていた。
超人的な悲劇女優であると同時に生活面ではプチブル的でもあった。
あるいは対立し相容れない2つの世界を共存させなければならない生活でもある。一方は音楽という宗教であり、他方はいわゆる上流階級である。
私が目にした、その分裂した矛盾全体が制作意図の基本であり、まさに1人の女性の肖像になった。
この映画で見て欲しいのは人間の関係であり、気むずかしい一人の女性の肖像の中に本来の人間性を追求しようとした。


 

 









■監督・製作・撮影:フィリップ・コーリー
2002年、画家マティスとピカソについて追ったドキュメンタリー「Matisse-Picasso」(02)を監督。ジャーナリストのジャン=ジャック・セルヴァン=シュライバーを追った「Servan-Schreiber」(02/arte製作)、写真家ジャック=アンリ・ラルティーグと彼の作品を追った「Jacques-Henri Lartigue - Le Siècle en positif」(03)、現役の歌手で女優のリーヌ・ルノーを長く興味深いキャリアを描いた「Line Renaud, une histoire de France」(06)、シャルル・ド・ゴールの妻イヴォンヌを追った「Yvonne de Gaulle, le rendez-vous de novembre」(06)、サスペンス作家パトリシア・ハイスミスといった、興味深い人物についての作品を次々と手掛ける。


■スタッフ
製作:フレデリック・リュズィ
監督:フィリップ・コーリー
撮影:ステファヌ・マシス、ステラ・リベール
野外映像:フィリップ・コーリー
語り:フィリップ・フォール
音楽監修:エリーズ・リュゲルン
製作総指揮:ジェニフェール・ボシュ、トマ・アルベーズ

     

 

 

   


■オフィシャルサイト
http://www.cetera.co.jp/callas/

(C)SWAN Productions - ARTE France - ERT - NSNM / 2007

2007年/フランス/98分/デジタル/ビスタ
日本語字幕:古田由紀子
配給:セテラ/マクザム