マリア・カラスの真実
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■主な登場人物 ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニ アリストテレス・オナシス ルキーノ・ヴィスコンティ ピエル・パオロ・パゾリーニ グレース・ケリー ジャクリーン・ケネディ |
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出生からデビューまで ジュニア・ハイスクールの卒業式で歌を披露して喝采を浴び、35年にはCBSの公開のど自慢番組で2等賞を獲得し、36年ラジオ番組に参加し、プッチーニの歌劇《蝶々夫人》のアリア「ある晴れた日に」を歌った。マリアの卒業後、エヴァンゲリアは夫を残し、娘たちを連れて故国に戻る決心をし、1937年マリアは母、姉とギリシアのアテネ移住。ピアノと歌のレッスンを始め、楽譜研究に明け暮れる。 再デビューから成功まで 1955年スカラ座シーズン開幕作品《ノルマ》に取り組む。彼女はノルマに自身を投影する。この役は彼女のお気に入りであり、様々な映像、録音が残されている。もう一つのお気に入りが《椿姫》。スカラ座ではヴィスコンティ演出で伝説的な舞台が作り上げられた。歌うフレーズを思い浮かべて、それを表情にして顔に表してから歌い出すのが、彼女のスタイルになった。 1956年10月、《ノルマ》で遂にNYメトロポリタン歌劇場にデビューし、大成功を収める。 不調と失意 1958年1月、ローマ歌劇場での《ノルマ》の初日前日に不調を訴え、一幕の終わりで声が出なくなり、やむなく公演を中止。当日は伊大統領を始め有名人が訪れ、報道人も集まっていたことで、「裏切り」と大騒ぎになり、結局降板させられる。 1959年9月、コンサートでスペインを訪れた時には、既に夫と別居していた。11月、夫との法的な別居を求める訴訟で裁判所を訪れたマリアは、哀れな夫を裏切った恩知らずな不倫女とマスコミや人々に非難される。4か月後に正式に別居が認められる。その頃、オナシスとの子供を身ごもるが死産となる。 1966年、マリアは夫と正式離婚して、オナシスと結婚するつもりでギリシア国籍を取得。しかし、オナシスはジャクリーン・ケネディに心を奪われていた。68年10月、オナシスはジャクリーンと電撃結婚。全てを失ったマリアは、再び歌うことを決意する。しかし、声は万全ではなかった。エウリピデスのギリシア悲劇『王女メディア』(69)の映画化主演の依頼が舞い込む。監督はピエル・パオロ・パゾリーニ。 失意のマリアはパリのジョルジュ・マンデル通りにある新居で、睡眠薬の多量摂取で倒れているところを発見される。 ※ ※ ※
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フィリップ・コーリー監督 私は過去にダリダ、バルバラ、そしてリーヌ・ルノーの映画を作っている。3人とも歌手として偉大な人物である。今回マリア・カラスの映画を作ろうと思ったのは私にとってカラスは自分の原点のように身近に感じられる人間だったからだ。 この映画は単に一人のオペラ歌手を思い出させるために作ったのではない。音楽批評を目指したものでもない。一人の女性の人生におけるあらゆる側面を描こうとした。
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■監督・製作・撮影:フィリップ・コーリー 2002年、画家マティスとピカソについて追ったドキュメンタリー「Matisse-Picasso」(02)を監督。ジャーナリストのジャン=ジャック・セルヴァン=シュライバーを追った「Servan-Schreiber」(02/arte製作)、写真家ジャック=アンリ・ラルティーグと彼の作品を追った「Jacques-Henri Lartigue - Le Siècle en positif」(03)、現役の歌手で女優のリーヌ・ルノーを長く興味深いキャリアを描いた「Line Renaud, une histoire de France」(06)、シャルル・ド・ゴールの妻イヴォンヌを追った「Yvonne de Gaulle, le rendez-vous de novembre」(06)、サスペンス作家パトリシア・ハイスミスといった、興味深い人物についての作品を次々と手掛ける。 ■スタッフ 製作:フレデリック・リュズィ 監督:フィリップ・コーリー 撮影:ステファヌ・マシス、ステラ・リベール 野外映像:フィリップ・コーリー 語り:フィリップ・フォール 音楽監修:エリーズ・リュゲルン 製作総指揮:ジェニフェール・ボシュ、トマ・アルベーズ |
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2007年/フランス/98分/デジタル/ビスタ |
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