|
|
ショパン 愛と哀しみの旋律
CHOPIN: DESIRE FOR LOVE
2011年3月5日(土)よりシネスイッチ銀座他にて公開
■ストーリー
祖国ポーランドを逃れ、ウィーンを経て、パリに辿り着いたフレデリック・ショパン。作曲家としての名声を手にしつつあったショパンだが、パリでは認められず失意の底にいた。
そんな時、貴族や有力者たちが集まるサロンで、フランツ・リストが、ショパンのエチュードを演奏した。さらにショパン自身も請われてピアノを弾くことになり、観客を魅了する。ショパンの才能は、一夜でパリを制した。
まもなくショパンは、リストから女流作家のジョルジュ・サンドを紹介される。フランス最大の作家と称される一方で、財産と二人の子供たちの親権を巡って前夫と裁判で闘い、その間にも数々の男性との関係を噂されていた。
ショパンの才能にほれ込んだサンドは、ためらうことなくその想いを伝え始める。熱い眼差しで演奏中のショパンを見つめ、大輪の花と共に贈った自らの著書には、「ぶしつけな手紙ですが気持ちを抑えられません…永遠にあなたを称え尊敬します」と書いた手紙を添えた。
|
|
■キャスト
ピョートル・アダムチク
ダヌタ・ステンカ
ボジェナ・スタフーラ
アダム・ヴォロノーヴィチ
イェジー・ゼルニク
ヤヌシュ・ガヨス |
|
|
|
|
|
|
|
|
一方、ポーランド貴族の娘マリアに求婚し、彼女の両親の許しを待ち続けていたショパンは、サンドに何の関心もなかった。ところが、マリアの両親から持病を理由に結婚を断られたショパンは、ショックのあまり寝込んでしまう。 ショパンが肺炎に倒れたと聞いたサンドはすぐに駆けつけ、キッチンで滋養に富んだ料理を作り始める。ショパンはサンドの優しさに心を動かされ、二人の関係が始まった。
ショパンの療養のため、そしてスキャンダルから逃れて作曲に集中するために、二人はマヨルカ島へ旅立つ。サンドの息子のモーリスと、娘のソランジュも一緒だった。だが、温暖なはずの島にかつてない雨が降り、ショパンの病状は悪化してしまう。それからは、冬はパリ、夏はノアンにあるサンドの別荘で暮らす日々が続いた。
ショパンはサンドの、時に燃え上がるように激しく、時に包むように優しい愛のもと、次々と名曲を生みだしていくが・・・
※ ※ ※
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
■プロダクション・ノートより
ショパンの音楽と波乱の生涯、ジョルジュ・サンドとの伝説的ロマンスを題材にした小説や映画は数多く存在するが、そのすべてが必ずしもショパンの実像を捉えているとは言い難い。そこで本作のイェジ・アントチャク監督は生涯を忠実にたどった“究極のショパン映画”を目指すべく、若きショパンが音楽の研鑽に励んだワルシャワ、ピアニストとしての成功のきっかけを作ったパリ、療養のためにサンド一家と訪れたスペイン・マヨルカ島、そしてサンドとの同棲生活の舞台となったフランス・ノアンと、ショパンが実際に生活していた現地の撮影にこだわり、大規模な現地ロケを実現させた。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
■監督:イェジ・アントチャク
1929年、ポーランド生まれ。ウッチ映画大学俳優学科を卒業後、舞台俳優として活動を開始。その後、舞台演出家として作品を手がけ、63年以降はTV演劇の監督、脚本家。ポーランドの女流作家マリア・ドンブロフスカの人気小説を映画化した『Noce i dnie』(75)は、ポーランド映画史に残る観客動員数を記録。79年に妻ヤドヴィガ・バランスカと共にロサンゼルスに移住。カリフォルニア大学ロサンゼルス校映画学科で教鞭をとる。その後、90年代にポーランドに戻り、映画製作を続けている。
■スタッフ
監督・脚本:イェジ・アントチャク
撮影:エドヴァルト・クウォシンスキ
衣装:マグダレナ・テスワフスカ
音響:ニコデム・ヴォウク=ワニェフスキ
音楽:ヨーヨー・マ、ヤーヌシュ・オレイニチャク、横山幸雄
|
|
|
|
|
|
|
|
|
■オフィシャルサイト
http://www.chopin-movie.com/
(C) 2002, A Jerzy Antczak Production, All Rights Reserved.
英題:CHOPIN: DESIRE FOR LOVE
ポーランド/英語/126分/スコープサイズ
日本語字幕:古田由紀子
配給:ショウゲート
|
|
|
|
|
フレデリック・フランソワ・ショパンの生涯
1810年 3月1日、ポーランド中部のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。本名フレデリック・フランソワ・ショパン。父ニコラはフランス生まれの語学教師。母ユスティナはピアノをたしなんだ。
1816年(6歳) 本格的にピアノを習い始める。
1817年(7歳) 現存する最初期の作品《ポロネーズ ト短調》を作曲・出版。
1818年(8歳) ワルシャワで初の公開演奏会を開催。
1823年(13歳) ワルシャワ音楽院長ユゼフ・エルスネルの指導を受け始める。
1826年(16歳) ワルシャワ音楽院に入学。
1829年(19歳) ワルシャワ音楽院を首席で卒業。
1830年(20歳) ワルシャワのデビュー演奏会で《ピアノ協奏曲第2番》初演。ワルシャワ蜂起。
1831年(21歳) ウィーンを出てパリに到着。ワルシャワ陥落の報せに憤りを感じ、《練習曲第12番「革命」》を作曲したとされる。パリにてリストと知り合う。
1832年(22歳) 2月、パリでデビュー演奏会を開催。
1835年(25歳) カールスバートで両親と再会、最後の面会となる。
1836年(26歳) リストの愛人マリー・ダグー公爵夫人のサロンで、ジョルジュ・サンドを紹介される。ポーランド貴族の娘マリア・ヴォジンスカに求婚する。
1837年(27歳) マリアより婚約破棄が通告される。
1838年(28歳) サンド一家とスペインで合流し、結核療養のためにマヨルカ島に渡る。
1839年(29歳) 《24の前奏曲集》完成。健康状態が悪化し、マヨルカ島を発つ。以後、夏はフランス中部ノアンのサンド邸に滞在し、同棲生活を始める。
1846年(36歳) 最後のノアン滞在。生前最後の出版作品《チェロ・ソナタ》を作曲。
1847年(37歳) サンドと破局する。
1848年(38歳) 2月、パリで最後の演奏会。その後、ロンドンに滞在。11月16日、ロンドンで開催した慈善演奏会が生前最後のコンサートとなる。11月、パリに戻る。
1849年(39歳) 絶筆となった《マズルカ第49番 ヘ短調》をスケッチ。姉ルドヴィカとパリで再会。10月17日、パリの自宅で死去。
1850年 姉ルドヴィカ、ショパンの心臓をポーランドに持ち帰り、ワルシャワ聖十字架教会内に安置。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|