画家モリゾ、マネの描いた美女 名画に隠された秘密 Berthe Morisot 2015年6月13日(土)YEBISU GARDEN CINEMAにてロードショー モリゾ姉妹がルーブル美術館で模写をしていると、あのスキャンダルを巻き起こしていた絵を描いたマネが現れ、高圧的な態度であれこれ指導する。 数日後、マネからベルト宛に、モデルになって欲しいという手紙が届く。ベルトは断りの返事を書き、マネに惹かれているエドマを代わりにと薦めるが、画題は変えられないことを画家同士として理解してほしいと頼まれ引き受ける。 |
■キャスト マリーヌ・デルテルム アリス・バトード マリック・ジディ ベランジェール・ボンヴォワザン パトリック・デカン フランソワ・ディユエード ほか |
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県知事の父は、姉妹だけでマネのアトリエを訪ねたことに激怒する。母は娘たちが結婚前の習い事を超えて絵画にのめり込み、婚期が遅れることを心配していた。やがて、ベルトを描いたマネの新作「バルコニー」が完成する。マネの斬新な画風に感銘を受けたベルトは、伝統的な手法を捨て外に出かけて光を捉えたいと熱望するが、師匠のコローから止められる。 進むべき方向を見つけられず悩むベルトに追い打ちをかけたのは、ずっと一緒に絵を描くと約束していた姉の結婚だった。30歳を前に周囲からのプレッシャーに耐えられず、海軍将校からのプロポーズを受けたのだ。 互いの才能に刺激を受け、ベルトとマネは強く求め合うようになる。だが、妻や弟子のエヴァの存在と、マネの気まぐれで矛盾した性格に、ベルトは心を引き裂かれていく・・・
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■プロダクション・ノートより ベルト・モリゾ プロフィール 印象派を代表する女性画家として、その誕生にも参加した画家。 イヴに続きエドマも結婚し、一人で画家を目指して何度もサロン入選を果たし、女性画家ベルト・モリゾの名前は次第に知られていく。 1870年、普仏戦争が勃発すると、マネをはじめ男性の画家たちも戦争に巻き込まれる中、ベルトは絵を描き続ける。終戦後の30歳の時、マネの紹介で、画商ポール・デュラン=リュエルと出会い、作品を買い上げてもらう。デュラン=リュエルは、モネやピサロやルノワールらの作品も買い続け、印象派やバルビゾン派の画家たちを支援した名画商として美術史に名を残している。 1874年、33歳で、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらと、第1回印象派展に参加する。同年、父の死、そして、マネの弟ウジェーヌ・マネとの結婚と、様々な転機を迎える。この頃から、カフェ・ゲルボワの流れをくむサロンの方へ進んだマネと、画家として違う道を歩み始める。 ドガが、ウジェーヌの肖像画を結婚のお祝いに贈る。結婚後、イギリスに旅行し、ワイト島に滞在し、いくつかの作品を描いている。ベルトとほかの印象派の画家たちの作品が売れるようになっていき、後に、モネがベルトの作品を購入している。 1892年、51歳の時、夫ウジェーヌ・マネ死去。 わずか3年後の1895年、ジュリーが病気になり、その看病で自身も病気になり、54歳で人生を閉じる。翌年、マラルメ、ドガ、モネ、ルノワールが没後回顧展を企画。 1941年、ピサロ、ドガ、モネ、マネ、ルノワール、セザンヌに続き、ベルトの大回顧展が、オランジュリー美術館で開催された。
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■監督:カロリーヌ・シャンプティエ 1954年、フランス パリ生まれ。 映画学校であるIDHEC(現在はFEMIS)で、映画を専攻。 その後、撮影監督として数々のジャン=リュック・ゴダール作品を手掛け、またジャック・ドワイヨン、ブノワ・ジャコー、フィリップ・ガレルなどと作品を作り上げている。 外国映画製作者とコラボレーションする事も多くなり、日本映画界とも馴染みが深く、諏訪敦彦監督の『H story』(01)や『不完全なふたり』(07)、河瀬直美監督の『七夜待』(08)、レオス・カラックス監督『TOKYO!メルド』(08)等の作品も手がけている。2009年には第22回東京国際映画祭の審査員を務めた。 『神々と男たち』(10)では、2011年セザール賞2011で撮影賞、リュミエール賞を受賞。長編ドラマを監督するのは本作が初となる。 ■スタッフ 監督:カロリーヌ・シャンプティエ 脚本:シルビア・メイエ&フィリップ・ラスリー 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 美術:パスカル・コンシニ 衣装:パスカリーヌ・スティ 編集:ジャン・フランソワ・エリー |
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原題:Berthe Morisot |
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