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ムンク、「装飾」への挑戦

ムンク展
Edvard Munch The Decorative Projects

2007年10月6日(土)-2008年1月6日(日)
国立西洋美術館

「『生命のフリーズ』は、全体として生命のありさまを示すような一連の装飾的な絵画として考えられたものである。」※1

 ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク(1863〜1944)は、日本でもすでに数多くの展覧会が開かれてきましたが、これまでの展覧会は、彼の作品に表わされた「人間の魂の叫び」とも呼べる主題を捉えるために、愛、死、不安、絶望といった心理的な諸テーマによって彼の作品を理解しようとしてきました。
 しかし、彼が〈生命のフリーズ〉という壮大なプロジェクトによって達成しようとしていたものは、これらのテーマからだけでは捉えきることができないものです。なかでも最も見過ごされてきたのが、上(※1)に引用したムンク自身の文章にはっきりと語られている、その「装飾性」です。今回の展覧会は、ムンクの作品における「装飾」という問題に光を当てる世界でも初めての試みとなります。

 本展は、オスロ市立ムンク美術館所蔵の代表的油彩・水彩・素描など約110点を展示し、ムンクによるいくつかの装飾プロジェクトにそれぞれ1章をあてて構成され、彼の「装飾画家」としての軌跡をたどることができるものとなっています。


 

《不安》 1894年
オスロ市立ムンク美術館
©Munch Museum,Oslo


 

※1:1918年に開催されたムンクの個展(オスロ、ブロンクヴィスト画廊)のカタログに掲載された彼自身による文章「生命のフリーズ」より
 
       
 
 
■第1章 生命のフリーズ 
装飾への道
 「私は、それらの絵を並べてみて、数点のものが内容の点で連関があるのを感じた。それらのものだけを一緒に並べるとある響きがこだまし、一枚ごとに見たときとは全然異なるものとなった。それは一つの交響曲になったのである」
―ムンク美術館に残されている未発表資料より


ムンクは、自らが描いた作品のうち、その核となる一連のものを〈生命のフリーズ〉と名づけました。それは、個々の作品をひとつずつ独立した作品として鑑賞するのではなく、全体でひとつの作品として見る必 要があると彼が考えたからでした。それは、オーケストラの奏でる交響曲のようなもので、それぞれの楽器のパートの演奏がひとつにまとめられたときに初めて、作品として完成するものでした。

 
《マドンナ》 1895年
オスロ市立ムンク美術館
©Munch Museum,Oslo
   
       
 
 

《<生命のフリーズ>の展示装飾のためのスケッチ》 
1902-07年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
    
 
       
 

《生命のダンス》 1925-29年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
 

 
   
 
 

■第2章 人魚
 

アクセル・ハイベルク邸の装飾


ムンクが初めて描いた装飾パネルは、ノルウェーの実業家 アクセル・ハイベルクの注文によるものでした。ハイベルクは、美術品コレクターとして、 若手芸術家への支援を活発に行っており、オスロ近郊にあった自邸を飾る壁画の制作をムンクに依頼しました。
 
《浜辺の人魚》 1893年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
   
 

《浜辺の若者たち》 1904年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
 

■第3章 リンデ・フリーズ
 
マックス・リンデ邸の装飾
 

リューベック(ドイツ)の眼科医マックス・リンデは、 1902年にムンクと知り合って以来、ムンク作品を収集し、画家を支援していきました。そしてリンデは、 1904年に自邸の子供部屋を飾る装飾パネルをムンクに依頼します。ムンクはそれを〈生命のフリーズ〉 を壁画にしたものとして構想し、制作しました。しかし、その主題が子供にはふさわしくないとして、 リンデには受け取りを拒否されてしまいます。 本章では、ムンク美術館に残されたこの〈リンデ・フリーズ〉を展示します。
 
   
 

■第4章 ラインハルト・フリーズ
 
ベルリン小劇場の装飾


ベルリンの演劇人マックス・ラインハルトは、 1906年、ベルリン小劇場の2階ホールに装飾パネルも描くようにムンクに依頼しました。ムンクは、 〈生命のフリーズ〉をもとにしてその壁画を仕上げています。この下絵となった油彩作品を中心に展示いたします。
 
 
 
 

《浜辺の出会い(<ラインハルト・フリーズ>のための習作)》 1906/07年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
 

■第5章 オーラ
 
オスロ大学講堂の壁画
 「生命のフリーズ〉は私の装飾に対する感覚を発展させた。 思想内容の点でも、オスロ大学講堂壁画と〈生命のフリーズ〉とを関連させて見るべきだ。 〈生命のフリーズ〉は個人の悲しみと喜びとを近くから見つめたものであり、大学の壁画は雄大なる永遠の力を描いたものである」
―1918年に開催されたムンクの個展のカタログに掲載された彼自身による文章「生命のフリーズ」より


1909年から16年までかなり長い期間にわたってこのプロジェクトに取り組んでいます。 中核となった主題は、「太陽」「歴史」「アルマ・マーテル」など、象徴的、寓意的なもので、 〈生命のフリーズ〉とは異なるテーマが選ばれています。しかし、ムンクは、この講堂壁画と 〈生命のフリーズ〉が密接に関連するものとみなしていました。本章では、 この壁画の下絵となった油彩画を中心にこの装飾プロジェクトを紹介します。

 
 

《太陽(習作)》 1912年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
   
       
 

《森へ向かう子供たち》 1921年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
 

■第6章 フレイア・フリーズ
 
フレイア・チョコレート工場の装飾


1921年、ムンクは、オスロにあるフレイア・チョコレート工場の職員食堂を飾る壁画の制作を依頼されます。 彼は、〈生命のフリーズ〉のテーマと労働者を描いた作品とを組み合わせて、この装飾パネルを完成させました。 本章では、〈フレイア・フリーズ〉の成立過程を示している下絵素描を中心に展示いたします。
       
       
 

《雪の中の労働者》 1910年
オスロ市立ムンク美術館
©Munch Museum,Oslo
 

■第7章 労働者フリーズ
 
オスロ市庁舎のための壁画プロジェクト
 「いまや労働者の時代だ。芸術はふたたび万人の所有財産となり、公的な建物の大きな壁面のために制作されるようになるだろう」
―ムンクがラグナー・ホッペに語った言葉。『現代美術 Nutida Konst』誌(1929年2月)に掲載。


1910年前後から、ムンクは〈生命のフリーズ〉とは異なる新たなテーマを探求するようになります。 彼が目を向けたのは労働者たちの姿で、彼はこの主題をもとに、もうひとつのフリーズ、 いわゆる〈労働者フリーズ〉を構想しました。その構想は、1920年代後半から、 当時建設計画のあったオスロ市庁舎の装飾壁画として完成させるプランへと発展していきました。 本章では、このフリーズの中核となる初期の作品や、市庁舎壁画の構想を描いた素描などを展示いたします。
 

■神秘の象徴としての女性像
 

 「人間の発展すべての神秘をひとつにまとめたもの―聖女でもあり、 娼婦でもあり、同時にまた哀れにも献身する人でもあるという女性の特性は、男にとって謎である。」

白い服を着た若い女性、誘惑するかのようなポーズをとる裸体の成熟した女性、 そして黒服の暗く打ち沈んだ老いた女性。これらの3人の女性は若さ、成熟、老いという女性の3段階を示していると共に、 女性の3つの異なる側面、つまり穢れを知らない無垢さ、淫らな官能性、死と老いへの悲しみを表してもいる。
 

     
《女性の三相、スフィンクス》 1893-94年
オスロ市立ムンク美術館 ©Munch Museum,Oslo
テキストはプレス資料より抜粋し、転載しました。

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ハローダイヤル 03-5777-8600
国立西洋美術館
http://www.nmwa.go.jp/index-j.html